熱い想い
先日、以前の職場というのがいいのか、それともなんというのか。
前の職場は、立ちあげから3年間いたわけですが、今は名前は残っていても全然以前のようなスタイルではなくて、重度包括支援と少しだけ在宅支援をしているという状況。
まぁ、そうは言っても自分が今更とやかく言える立場でもないし、苦情や残念っていう話は聞くけど、それをどうすることもできないでいたのですが、先日、そこに舞い戻ったスタッフから携帯がなりました。
そして、話を聞いた所、もう一度あの頃のように余暇支援や児童のサービスを充実させたいという話。
これは、最高にうれしい話だ。
出来る限りのことをする。データやノウハウは渡すことはできる。
あとは、実働をがんばってほしい。
うまくいくかなぁ。
今度、ゆっくり彼らと話をしたいな。
連絡してみよう。
改革の第一弾
今までできていなかったわけではないんだけど…。
来年度から、長野県は地方分権の一つに来年度からスタートする「障害者総合支援法」の追加条例の中に「最低6ヶ月に一度は個別支援計画を見直す」ということが盛り込まれます。
これは、悪いことではなくてむしろ今までがなぁなぁになっていたところが、ちゃんと管理されるようになるってことはいいことだと思います。
ということで、自分の職場のシステムを見直す事にして、準備を初めて数ヶ月です。
やっと、第一弾をスタートしました。
今も良い事業所だと思ってます。
でも、今まで以上に良くするためには何をするべきなのか?ということを考えてきました。
そして、今日やっと第一弾をスタートしました。
この事業所では、今までは個別支援計画は形式的なところが多く、おそらく多くの事業所がそうなのかもしれないが、常に見直すということをしてこなかった。
でも、今回はこれを使って個人のパーソナリティを改めて知るチャンスを作ることにしました。
なんとなく、普段接している人・支援を文章に起こすことで気づかなかった事やわからなかったことを知る事ができるようになるという意図があります。
これを急に全てやることは大変だけど、一つひとつを丁寧に取り組んでいくことにしました。
今日は、その第一歩としてはよかったのかもしれないと思います。
そして、みんなが普段行なっている支援がとても大切なことが沢山含まれているということを知ったと思います。
これから、うまく一人ひとりが気づいて組み立てていけるようにしていきたいと思います。
これが当たり前だと思わないでほしいな。
重症心身障害児(者)病棟の見学をしてきました。
昔からあるある病院の施設ですが、ここでは多くの重度に分類される障害を持たれた方達が生活しています。
7年ぐらい前に何度か利用者がショートステイをするために訪れた事があったのですが、あの頃からイメージは変わらず…。
今回も切なくなるばかり。
「安全を第一に」という言葉を頻繁に使う指導員。
そして、今度施設を建てなおす事になっているので、そうなったらもっと過ごしやすくなります。という言葉…。
これに、どこまで期待をすればいいのだろう?
建物が変わっても、スタッフの考えが変わらなければ、ただ建物が綺麗になるだけだよね。
そこでは、安全のため衛生のために拘束着を来て歩いている人。
床にただゴロゴロしている人、ベットのまま共有スペースの住みで過ごす人。
部屋は、高柵で四方を囲まれたベットがおいてあり、場所に寄っては「その人の行動に合わせて床に布団を引いています」と自慢気に話をしながら見せた光景は…。
確かに、床に布団はひいてあるけど、コンクリートの床の上に直にマットレスがあり布団がある…。
『カーペットとか引かないの?』と疑問に思うぐらいです。
切なくなるよね…。
昔、ここに迎えに来た時、利用者の子は高柵のベットの中で好きなビデオも見れずに過ごしていた…。
今もそれは変わらないらしい。
そして、行動障害の人に対する対応はどうなっているのか?気にしてみたところでは、何もされていない。
おそらく「構造化」なんてまったく興味のない世界なんだろうな。
ちょっと前に間接的に関わったある方を入所施設に移行させる時に、事前に病院で逃げ場を作ってもらって、そこにカードを貼って欲しいという要望を出したことがあったけど、簡単に「無理ですし、必要ありません。」という回答だった。
きっとそんな状況なんだろうな。
そして、至る所に鍵がしてあり、移動の度に鍵を開け閉め。
体制上仕方ないのかもしれない。
さらに玄関(入り口)については、精神科と一緒に併設されているので、危険を考えれば玄関に鍵はあってもしかたない。
でも、病棟の中ではやってほしくないです。
それを、「伝統なので鍵で管理しているんです。」とにこやかに話す指導員…。
本当に殴りたくなったよ。
正直、どんなにここが空いていても、短期入所であっても自分がマネジメントする方はここには入れたくないよ。
重症心身障害児(者)病棟って、どこもこんな切ない状況なの?
そうそうこれだよ!!
そんな感じの会議が午前中ありました。
今回は、とある小さい町の話です。
最近、その町に住んでいる方のケアマネジメントを担当している関係で、頻繁に訪問しているのですが、そこでグループホーム・ケアホームが最終じゃないよね~なんて、役場の担当者と話をしていたところ「それをみんなで話し合いましょうよ!!」となり、勢いをつけて本日「キックオフ会議」が開催されました。
町の中で生きていくことを中心に、何が必要なのかを話していく段階で理想だった、ケースから生まれる話し合いが実現しました。
ある方が町に唯一あるグループホームで暮らせなくなってしまっている事から、今回はそれを問題と思っているメンバーが集まり話し合いがスタート。
そこから、「グループホーム以外での生活が可能なのか?」議論開始。
2時間超の中で、あつい議論が生まれ、さらには本当に行けるのかどうか?とか、そんな話をしていきました。
自分は、その方に関わっていないのでどちらかというとスーパーバイズ的な位置での話でしたが、今のグループホームのスタッフが思っている以上の能力があることはわかりました。
それなら、グループホームにいる必要ないじゃんか。となり、でもどうやって生活していくか?自宅には事情があって帰れないらしい。
さらに疑問がでます。
なんで自宅に帰れないの?
そこから、長年施設で生活をさせてしまっていてわが子であってもお母さんは一緒にいても何もできないという気持ちが先行してしまっているんじゃないか?
さらには、お母さんも高齢で介護保険を使い始めている…なら無理はできないんじゃないか?
そこから、自宅の近所に住む場所を確保して、お母さんは食事と風呂ぐらいはできるらしいので、そこは自宅に通って行うようにしてみたら?
月1回ぐらい、今行っているショートは最初はグループホームの事情で始めたけど、近くに新幹線が走っていて本人が楽しみにしているので、続けてみたら?
でも、通うのは車の送迎じゃなくて、近い将来自分で電車に乗って通えそうだから練習にガイドをつけたらどうだろうか?
どんどん、地域で生活してく方法が生まれました。
そして、住むところも長野県独自の制度をつかって家賃補助ができそうだから、これでいけるぞ!!
そんな勢いのある会議でした。
この会議をやりながら思ったのは「あぁ、俺こんな会議をずっとやりたかったんだなぁ。」と思う瞬間が何度もあったことです。
非常に意味のある会議だったと思います。
そして、この方の生活を組み立てながら同時に地域の仕組みを作っていくというのもうれしかった。
これでうまくいけば、次に同じようにグループホームから出て生活することができる道ができます。
絶対、成功させたい。
さらには、この仕組みを支える人を町の中に事業所を作ってやっていけたらいいなぁ。
これは次の階段にしたいと思います。
とにかく、今日は楽しい会議だったです。
踊る大捜査線
やっと「踊る大捜査線-FINAL-」を観てきました。
青島と室井の最後です。
もう終わっちゃうのか…なんか、ずっと2,3年に1度ぐらい続けてくれれば面白いのになんて思う反面、きっとこの辺りで終わらせないと難しいんだなと思ったり。
ラストについては、う~んって感じです。正直ね。
話は、そうだなぁやっぱりできすぎている感があります。
映画としてみれば、今までの「踊る…」シリーズにしてみたら、一番おもしろくなかったのかもしれない。
しょうがないと言ってしまえばしょうがないんですけどね、あんな感じで落とさないとラストって感じにならないから。
ただ、毎回この映画をみて思うのは、自分はやっぱり青島のよになりたいと思う日々です。
当然、室井さんのような人が居ないと困るわけですけどね。
自分は日々仕事をしていて、どっちのタイプを望んでいるんだろう?と思う時がある。
でも、今回の映画を観てはっきりしたのは自分は青島でありたい。と思った。
現場が好きなんだなと。
最近、色々と全国の仲間やつながりのおかげで全国的な仕事もさせてもらったりもしているけど、地域が好きなんだよね。
それがわかっただけでも大きいかな。
なので、自分は偉くもならなくていいし官僚になるつもりもない。
今、自分が思うことをやり続けるだけなんだと。
そして、上を目指す人が上を変えていって欲しいと思ったわけです。
それが見えた時、ちょっと楽になりました。
正直、ここ最近 俺はどうしてしまうんだろう?と思っていたので。
自分のスタンスが見えて、あとは何をすればいいかをじっくり考えていきます。
MS-Accessに続いて
最近は、久々続きというかなんというのか。
今月(10月)は、少し仕事に余裕ができているので、モニタリングの書類作りなどをしなければならないのは事実なのだが、他のことに手をだす心の余裕がある。
おかげで、色々とアイディアも浮かぶのだが、ずっと保留にしていた職場のホームページに手を付けることにした。
で、何が久々なのかというと、ホームページを作るのも久しぶりで、最近は震災直後にスタートした、被災地の事業所支援のためのページを作って以来になる。
ずっと「簡単なのでいいからとにかくホームページがないと」という要望はあったのだが、それすら手を付ける時間がなかった。
そう、簡単でも作る時間がないくらい追い詰められていたのかもしれない。
とはいえ、まっさらからのスタートではなく、ホームページを作ることを前提に作成したパンフレットがあり、そのデータからほとんどを調達することができたので、あとはパンフレットの構成から、ホームページの構成に変換するぐらいと軽く考えていた。
しかし、蓋を開けてみたところ実は…
今回のパンフレットはMicrosoftのPublisherという、Adobeで言えばInDesignのようなソフトで作成したので、HTMLに吐き出すのはそんなに難しい作業ではないだろう?と単純に思っていたのだが、実はそれが甘かった。
たしかにHTMLに吐き出しをして、それをそのまま表示させれば綺麗にパンフレットとほぼ同じようなページが表示された。
これを左右の順番だったりバランスを整えればと思ったのだが、実はここに落とし穴があったのだ。
結局、この構成というのは、すべてレイヤーで作られており、しかもMicrosoft特有のソース構成だったために、かなりの苦労を要することになる。
今回作成に使用したソフトは、AdobeのDreamweaverを久々に使うことにしていた。
しかし、それも一つの落とし穴で、自分が現役で使っていたのはDreamweaver3という今となっては化石とも言えるバージョンで、今回入手していたのはCS5.5という最新の一つ前にだった。職場では、テックスープジャパンの寄付プログラムを活用してCS6.0を入手済みだったこともある。
しかし、使い方がぜんぜん違っているということ、さらにはMicrosoft特有のレイヤーなどなどのソース吐き出しのおかげでまったくといっていいほどDreamweaverでは太刀打ちができない。
結局、ソース画面をだしてゴリゴリと修正をしていくはめになったり、Divタグが変な同期をしてしまっていて、正しく動かかなかったり。
デザイン画面ではぜんぜん拉致があかずに、最終的には諦めるという結果になってしまった。
ま、今回は簡単なホームページということなので、最初から作ることにして、ただ画像などはPublisherで吐き出されたデータをそのまま活用できるということで、最初から作り始めたら4時間ほどで完成。
公開まであと一歩。データはすでにサーバに上がっているのだけど。(当然、見ることもできる)
しかし、そこで納得がいかなかったのはこれで公表すると今契約しているサイトのURLになってしまうのだけど、実は1年ほどになるがオリジナルのドメインを取得しているので、これを活用したいと考えた。
が…
またまた落とし穴ですよ。
今回のドメインは結構前に、Value-Domainというサイトを通して取得したものなのだけど、これが曲者だった。
結局、Value-domainで購入したドメインは、Value-Doaminでは直接の管理はしていないのか…URL転送もなにも使えないという、最悪なドメインになりさがっていたのに気づいたのが昨日…。
いまさらなのだけど、しかたないのだけど…。
ということで、今はホームページはできたんだけど、ドメインの転送ができないので結果的には、使えない…ドメインになってしまった。
そんこんな最中なのだが、あらゆることが久々過ぎて戸惑いながらです。
さぁ、これからドメインの引越しがうまく入ったら、ホームページを公開するぞ。
訃報・・・
今日、朝出勤したらTELが鳴りました。
『こんな時って、あまりいい報告じゃないんだよな… 』そんな予感は的中。
2年前まで相談支援と身体介護で関わっていたNさんが、突然お亡くなりになったそうです。
原因は、クモ膜下出血だそうで、家族が気づいた時は時すでに遅く…
間に合わなかったそうです。
Nさんは、4年前に突然腰の痛みが発生してから、しばらく寝たきりの状態でした。
病院から出てきて、何もできないという家庭に相談支援と身体介護が入って、訪問入浴ができるようになるまでは、自分たちが身体介護で清拭や洗髪、時には介助浴槽がある温泉に行って入浴介助もしたことがありました。
そのころの自分たちの事業所は、どちらかというと預かりや体力系のサービスがほとんどだったので、はじめてホームヘルプらしいサービスでした。
ベット上での洗髪のやり方、ケリーパッドを作ってみたり、シャンプーボトルを工夫してみたり…。
そして、自宅内での歩行練習などなど。
ほんと、色々なことを勉強させてもらった支援でした。
そして、1年後にはなんとか杖を使えば歩けるぐらいにまで復帰して、最後通っていた作業所に行く事になり、生活が落ち着いたところで支援を終了し、相談支援も一旦終了ということになった方で、事業所としてもはじめて支援をいい方向で終了することができた人でもありました。
それからというもの、時々お茶を飲みに行って話をする程度の付き合いだったのですが、常に来にはかけていた存在でした。
しかし…。
こんな形でお別れをすることになるとは、夢にも思っていませんでした。
今でも、家に行けば笑うとシワでくちゃくちゃになるあの笑顔で迎えてくれそうな気がしてなりません。
でも、歩いたり着替えたり…大変なことが多かったから、これからは少し楽になるかな。
これからは、私達を空の上から見守っていて欲しいと思います。
安らかに。